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ピアソラをめぐるいくつかの個人的な事柄(その2)〜行きあたりばったり音楽談議(9)


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はじめに

前回に続き、個人的なピアソラ体験を綴ってみます。

ピアソラをめぐるいくつかの個人的な事柄 (その2)

ピアソラ体験

1983年、今度は大学に無事合格し、晴れて上京を果たします。これで充実のタンゴ・ライフ…になるはずでしたが、何を血迷ったかいわゆる体育会系の運動部に属してしまい、大きな時間的制約を受けることになります。とはいえ、あちこちのレコード店を回ったりして、それなりには充実していましたが。

1984年、ピアソラは2度目の来日を果たします。ついにライブでピアソラを体験する機会が訪れたのです。11月21日の五反田簡易保険ホールでのコンサートは、しかしながら、なんだかどんどん進んでしまって、ああ、もっと聴いていたい、と思っているうちに終わってしまったような気がします。良かったのか悪かったのかもよくわからない、夢の中のような出来事でした。ラウル・ラビエの歌う「白い自転車」だけが、なぜか今でも時々蘇ります。

1986年には、受験失敗の時以上の不覚を取ってしまいます。ピアソラがゲイリー・バートンと一緒に来日公演を行ったのですが、それに気付かず、コンサートを聴き逃してしまったのです。後にはピアソラの来日公演の中でも最も素晴らしい内容のコンサートだった、ということを知りました。悔やんでも悔やみきれない…。

1988年にはミルバとピアソラの「エル・タンゴ」公演。これは絶対聴き逃すまい、と早々にチケットを購入しました。ところが、社会人2年目の私は大阪での販売研修を命ぜられます。幸いにも購入したチケットがちょうど休みの日に当たっていたので、新幹線で東京に戻ってコンサートに行くことができました。6月29日の東京厚生年金会館ホールでのコンサートは、とにかく素晴らしいの一言。ミルバの深紅のドレスが涙で滲んで見えた光景が、脳裏に焼き付いています。夜行寝台で大阪に戻り、そのまま研修続行。

新譜待望

当時ピアソラを聴くことができた、というのはとても幸せな体験でした。それは、ライブで聴けた、ということももちろんですが、例えばいつ新譜が出るかを待ち焦がれ、出た新譜にドキドキしながら針を落とす、という喜びを得ることができたこと、レコードの音に込められたピアソラの意志を、リアルタイムに近いタイミングで感じることができたこと、などによるものです。いわば、同じ時代の空気を吸っているアーティストとしてピアソラをとらえることができたわけです。

そんな感覚で聴けたレコードは、1982年のレジーナ劇場でのライブ、1984年のミルバとの「エル・タンゴ」、映画のサウンドトラック「タンゴ〜ガルデルの亡命」「スール」、そして「タンゴ・ゼロアワー」でした(この時期には他にも何枚かのアルバムがリリースされていますが、情報収集能力の不足から買い漏らしていました)。

さようならアストル

2000年の7月5日に掲示板に書き込んだ文章が自分でも良く書けていると感じますので、一部をそのまま再掲します。

手元の記録を見ると、それは1990年の9月22日だったのだ。オスカル・バシル指揮、フランシスコ・カナロ楽団の東京公演。ただぼんやりと席について開演を待っていると、目の前に座った男の言葉が耳に飛び込んで来た。「ピアソラが倒れたんだって。脳溢血らしいぜ。」連れの女性に向かって、あるいは自分自身に向かって、「ああ、もうだめなんだ。ピアソラは死んだんだよ。」とつぶやく彼。

椅子に深く座った彼のシルエットや声のトーンまで鮮明に覚えているのに、その後のカナロ楽団の音は見事なまでに全く思い出せない。

2年後の1992年7月4日、アストル・ピアソラはこの世を去った。私が彼の訃報を知ったのは、果たしてその直後であったろうか、かなり日が経ってからであったろうか。いずれにせよ、1990年の秋の日の衝撃に比べると、その事実はもはや淡々と受け入れられた。悲しかったけど、仕方ないとしか思いようがなかった。

その後

1990年代前半は、あまりタンゴを聴いていませんでした。それでも、輸入盤店でジャズやロックのCDを漁りながら、時々ワールド・ミュージックのコーナーをのぞき、そこにピアソラのCDが並んでいるのを発見しては何となくうれしくなって、よく買い求めていました。高校生の時に衝撃を受けた「オンダ・ヌエベ」が収録されたCDを入手できたのもようやくこの頃のこと。

1990年代後半になると、徐々に周囲が騒がしくなります。新聞にも「クラシック音楽家が最近よく取り上げるピアソラとは」というような記事が掲載されたりして、どうやらいわゆる「ピアソラ・ブーム」が始まった模様。クレーメルの「ピアソラへのオマージュ」で「ブーム」は一気に拡大します。ずっと聴き続けてきたアーティストが評価されるのは嬉しい反面、ブームとしてもてはやされるのには違和感がありました。

幸い、うわべだけのブームでは消費され尽くすことなく、今やピアソラの音楽は広く聴かれる存在として定着していると言えるでしょう。結果論としては、ピアソラが広く認知されるきっかけになった「ブーム」も悪くはなかったのかもしれません。

一方で、私の場合、タンゴ全般にしてもピアソラにしても、上京して以降はずっと一人で聴いてきました(多少は布教を試みても好反応は得られず)。それが1990年代後半になって、パソコン通信やインターネットを媒介してこの音楽を愛する多くの人とのつながりができ、急に視野が開けてきました。同時に一時期下火になっていたタンゴ熱、ピアソラ熱も再燃。そのまま現在に至っています。

というわけで

私はこんな風にピアソラを聴いてきた、ということをまとめてみました。これまで掲示板などにちょっとずつ書いてきたことの繰り返しになっている部分も多いのですが、一度きちんと整理してまとめておきたいと思っていて、ようやく果たせました。

最後まで読んで下さった方、ごく個人的な記録としての文章におつきあい下さってありがとうございました。

(2002年7月22日作成)

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