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ミルバ-ブエノスアイレスのマリア(2002.5.17)


よしむらのページ音楽的実演鑑賞の記録:ミルバ-ブエノスアイレスのマリア(2002.5.17)


データ

曲目

第1部

第2部

アンコール

所感

結構恥ずかしいのだが最初に告白してしまおう。私はミルバが歌うピアソラを聴くと無条件に涙が出るのだ。数年前に、たまたま風邪で発熱している時にピアソラとミルバの来日共演の模様を収めたビデオを観ていて、なんだかもうわけがわからない状態でボロボロと泣いてしまい(ちなみに1988年のその公演自体を私は生で観ているので、初体験の衝撃というようなものではない)、どうもそれ以来ダメなのである。ほとんど条件反射のような状態。ピアソラ=ミルバの共演ライブCDなど、とても人前では聴けないのだ。

そんな私が平常心で今回の公演を観られるはずもない。何とか平静を保とうとしたものの、結局は鼓動が早くなって涙線が一気に緩んでしまうような、強い感情の揺さぶりを受けてしまった。せりふを理解することともメロディーを追うこととも関係なく、ただ胸が詰まった。

というわけで、「感想」としてはこれに尽きるのだが、それだけではあまりに情報がないので、もっともらしいコメントも以下に並べてみようと思う。

とにかくミルバの存在感、もの凄いものがある。歌詞のない「マリアのテーマ」で「ラララ…」と歌うだけでステージ上の雰囲気を変えてしまう。特に第2部の「街路樹と煙突に寄せる手紙」「精神分析医たちのアリア」での静かな悲しみと想い出、「受胎告知のミロンガ」での官能と母性を併せ持つ力強さが素晴らしかった。

トレージェスも素晴らしい。本来このオペリータ(小オペラ)では、小悪魔の語りが全体の構成、進行において最も重要な役割を担っているのだが、今回はむしろトレージェス(吟遊詩人、夢見る雀のポルテーニョ、古き大盗賊、精神分析医、日曜日の声、の五役)の方が存在感が大きかったように思われる。物語りの語り部として、常に悲しい眼差しをもってマリアを見つめる存在として、彼の深みのある声は胸に迫るものがあった。

一方、小悪魔役のダニエル・ボニージャ・トーレスは、オリジナルのオラシオ・フェレールに比べるとかなり演劇的で、「場末のトッカータ」において激昂する場面など感情の起伏をより激しく表現していた。また、フェレールをはじめとするタンゴ人によるブエノスアイレスなまりのスペイン語を聴きなれた耳にとって、彼のスペイン語はまるで違う言葉のように響いた(ミルバのスペイン語も確かにイタリア語的な響きであったが、こちらはメロディーが伴うせいかそれほど気にならなかった)。とにかく最もオリジナルと異なるのが彼の表現であり、私にとっては耳慣れないことによる違和感が残ってしまった。もちろん異なることが悪ではないし、「小悪魔のロマンサ」における屈折した想いの吐露などは味わい深いものがあったと思う。

ダンサー2名の参加は、当初は邪魔なのではないかと危惧していたが、必然性がある場面でのみ登場し、舞台の重要な要素として機能していた。

気になるタンゴ・セイス・アンサンブルの演奏は、かなり健闘していたのではなかろうか。トップ・ヴァイオリンは本来の奏者の病気による代役とのことだが、随所で美しいソロを聴かせていたし、ピアノも好演で、時には指揮もしながら全体をリードしていた。バンドネオンは完璧とは言えないまでもかなり健闘。パーカッションが非常に目立っていて、ところどころで聴かれたロック風の2拍、4拍にアクセントを置く叩き方が新鮮であった。ギドン・クレーメルによる演奏(CD、テレビで観た来日公演)では省かれてしまっていたエレキ・ギターもちゃんと入っていて、しかも好演。オリジナルでは重要な存在であったフルートが省かれていたのはちょっと残念だが、全体として、ピアソラの音楽に特有のくすんだ音の塊のようなもの(うまく言えないが、ニュアンスは伝わるだろうか)を表現できていたように思われる。

演出面では、舞台上の装飾は限りなくシンプルであったが、時折背後に投影される映像と各人に動きのある演出は、イマジネーションをかき立てるものがあった。

この日最大の不満は音響面。トーレス、リッカルド・バリオス(ダンサー)、トレージェスのマイク音が歪んでいて、せっかくのせりふ、歌唱が台無しであった。第2部ではだいぶ改善されていたが、それでもトレージェスのマイクはフォルテシモで少し歪んでいた。またアンサンブルの方も、低音域の音像がぼやけていたのが惜しい。低音の音量そのものは出ていたのに、タンゴでは重要なコントラバスのアルコ(弓弾き)がちゃんと聴こえて来なかった。

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