自分の聴覚に多大な影響を与えたレコード (7) Astor Piazzolla – Roberto Goyeneche / En Vivo (Mayo 1982) Teatro Regina (アストル・ピアソラ・ライブ ’82)
Facebook で回ってきたバトン「自分の『聴覚』に多大な影響を与えたレコード」の補足その7『アストル・ピアソラ・ライブ ’82』です。今回はかなり長いですが、よろしければお付き合いのほど。
Astor Piazzolla – Roberto Goyeneche / En Vivo (Mayo 1982) Teatro Regina (アストル・ピアソラ・ライブ ’82) (1982, RCA/RVC, RPL-8152)
聴覚刺激ポイント:タンゴにおける即興の新たな地平、そして声の力
私のピアソラの音楽と出会ったのは1970年代半ば~末、小学生か中学生の頃でした。たまたま親が持っていたタンゴのレコード (母が好きだったタンゴ 参照) が自分の好みに合っていたので、当時 NHK FM で放送されていた「ラテン・タイム」という番組のタンゴの日 (月イチでした) を欠かさず聴くようになったのですが、時折他のタンゴとは全く異質の不協和音に満ちた音楽が流れることがあり、それがピアソラでした。でも当時の私は古典的な小気味良いタンゴが好みで、その音楽は耳障りという印象しかありませんでした。
価値観の転換が起きたのは1980年頃。タンゴ以外のロックやジャズにも触れて、だんだん聴く耳が育ってきた頃に、これまた NHK FM の「世界のメロディ」という番組でかかったピアソラのコンフント・ヌエベ (1970年代初頭に活動していた九重奏団)の「オンダ・ヌエベ」という曲があまりにかっこよくて、いきなりピアソラファンへと転向してしまったのでした。
(2021/03/14 これまで貼っていたリンクは Premium 会員限定のものでしたので、無料で観られるものに差し替えました)
1980年頃といえば、ピアソラがイタリアでのジャズロック路線での活動をやめて彼本来のスタイルであるキンテート (五重奏団) を再編し、その後世界で高い評価を受けるようになる活動を開始したタイミング。しかしその様子は雑誌「中南米音楽」でも断片的にしか伝わらず、新生キンテートの最初のアルバム『ビジュージャ』も国内ではリリースされず、転向したファンとしてはしばらくはやきもきした状況が続きました。
そして迎えた1982年、ようやく国内でもリリースされたピアソラの新譜が今回取り上げる『アストル・ピアソラ・ライブ ’82』だったのです。そう、「新譜」です。この時点をもってようやく、ピアソラは私にとって完全に同時代のアーティストになったのです。
まずは度肝を抜かれたのが1曲目 “Tristezas de un doble A” (AA 印の悲しみ) でした。
「AA」はバンドネオンのメーカーの一つ Alfred Arnold 社の商標で、つまりはバンドネオンそのものを象徴しています。5分程にも及ぶ無伴奏の即興バンドネオンソロに導かれ、力強さと悲しみを湛えたバンドネオンが鳴り響くこの曲、後半にはメンバー全員による集団即興が配され、トータル20分近くにも及ぶ大作となっています。
衝撃的でした。何と言っても集団即興部分。タンゴはここまで来たか、という感慨を抱きました (今思えば、まだまだタンゴのほんの一面しか知らなかった訳で、いささか不遜な物言いですが)。タンゴはきっちりしたアレンジをベースに、フレーズの歌い回しやちょっとしたオカズの部分に即興性が宿る、といったスタイルが長年続いてきた音楽です。ソロパートであっても基本的には譜面に書かれたフレーズが弾かれ、ジャズのようなアドリブソロといったものは普通はありません。一方で、譜面無しの即興で曲を演奏するということも、仲間内のセッション等では行われることがあります (譜面の乗っていない譜面台を焼き肉の焼き網=パリージャに見立ててア・ラ・パリージャと呼ぶそうです)。この集団即興パートもどちらかと言えばそういうセッションの延長上にあると言えるかもしれません。各人の紡ぐフレーズに各人が反応したりあえて無視したりしながらその場で作られていく音楽。どう転がるかわからないスリルがやがて古いタンゴのような演奏に収斂して行く快感と、そんな中で淡々と同じベースラインを弾き続けるコントラバスの醸し出す異様な緊張感。即興を終えた後の熱く駆け抜けるフィナーレまで聴き終えて、最初はいささか呆然としてしまった記憶があります。
続く「天使の死」。1980年代のピアソラのライブでは定番のレパートリーですが、私にとってはこの時聴いたのが初めて。こんなに熱気を帯びたフーガは他にあるでしょうか。レコードではここまでがA面。
B面は全曲が歌手ロベルト・ゴジェネチェとピアソラ五重奏団の共演。それまであまり歌のタンゴが好きではなかった私としてはあまり期待していなかったのですが…素晴らしすぎる。
この当時のゴジェネチェ、かなりヨレヨレです。嗄れた声でしばしばメロディを無視して語るように歌う、まるで酔っ払った爺さんのひとり語りのような、でも誰にも真似の出来ない実に深い味わいのスタイルの歌唱。
ラスト (CD や配信ではボーナストラックの前) の「ロコへのバラード」での語りは、早口でぶっきらぼうなようでいて、聴く者の心を掴んで離しません。中間の語りで “¡Viva! ¡Viva! ¡Los locos qué inventar del amor!” と群衆が叫ぶ描写、或いはラストで “Loca ella, loco yo” と締め括る部分も、かつてのゴジェネチェ自身を含め多くの歌手が情感を込めて劇的に表現する箇所ですが…まあ何と絶妙なことか。
そんなわけで、ゴジェネチェの声にすっかり魅了された私は歌のタンゴの魅力に目覚め、徐々に他の歌手も聴くようになったのでした。タンゴにおける即興のあり方と声の力、その二つのポイントで、まさに私の聴覚に多大な影響を与えたのがこのレコードでした。
ちなみにこの年、ピアソラは初来日を果たします。が、春に大学受験に失敗して札幌で浪人生活を送っていた身としては、コンサートのために東京に行くという選択肢はありません。この時ほど大学に落ちたことを悔やんだことはないかも。
以下余談
「AA印の悲しみ」を演奏する前にピアソラは「この曲の中で私はラウレンス、マフィア、ピチューコから今に至るまでのすべてのバンドネオン奏者を再現する」というようなことを言っています。
ラウレンス、マフィアはそれぞれペドロ・ラウレンス、ペドロ・マフィアのことで、今に至るバンドネオンの奏法の先駆となった名手です。1920年代に現代のタンゴの土台を作ったフリオ・デ・カロの楽団のメンバーだったことでも知られています。こちらは1926年に録音されたマフィアとラウレンスのバンドネオン二重奏で「ブエン・アミーゴ (良き友)」。
ちなみにピアソラは、この二人のペドロに捧げた「ペドロとペドロ」というバンドネオンソロ曲を書いています。レオポルド・フェデリコの演奏でどうぞ。
一方ピチューコというのは、アニバル・トロイロというバンドネオン奏者のニックネームです。ピアソラも1940年代前半にトロイロ楽団のメンバーでしたので、ピアソラの直接の師にあたる人物でもあります。この人については後程。
さてさて、そんなバンドネオンの歴史をたどる一大叙事詩たるこの曲、元々はコンフント・ヌエベのために書かれた7分余りのものでした。そしてここで衝撃の事実。
確か七〇年代のある午後、オラシオ・フェレールは私にこう言った。ノネートのレパートリーとして作曲された「AA印の悲しみ」は、実際に “AA” に見合っていたが、ドイツ人たちの手で作られたバンドネオンとは何も関係などなく、あれはアストルとアメリータのことで、当時のけんかの悲しみに包まれたものだったのだと。
ピアソラ 自身を語る (ナタリオ・ゴリン 著、斎藤充正 訳、河出書房新社) p.228
アメリータというのは歌手のアメリータ・バルタールのことです。1968年のオペリータ (小オペラ)『ブエノスアイレスのマリア』の主役に抜擢されてから程なくピアソラの私生活のパートナーとなったアメリータでしたが、この曲が作られた時点では二人は緩やかに破局へと向かっていました。この曲に込められた悲しみは、実はピアソラ自身の極めてプライベートな心情でもあった訳です (バンドネオンと何の関係もなかった、とまで言えるのかは定かではありませんし、1980年代の演奏が強くバンドネオンと結び付いているのは間違いありませんが)。
なお、引用した本はピアソラの自伝ですが、この部分は著者ナタリオ・ゴリンの言葉です。オラシオ・フェレールは作詞家で、上述の『ブエノスアイレスのマリア』や「ロコへのバラード」の歌詞もこの人の手によるものです。ノネートは九重奏団の意味でコンフント・ヌエベを指します。
ちなみにこの演奏の荘厳な冒頭部分は、先日行われたNHK杯フィギュアスケートで木科雄登選手のショートプログラムに使われていました。
さて、ピチューコことアニバル・トロイロについて。少年時代から第一線で活躍していたバンドネオン奏者トロイロは、楽団指揮者、作曲家としても素晴らしい業績を残しました。その丸々と太った容貌と親分肌の人柄で多くの人に愛され、没後45年となる今でもバンドネオンの、そしてタンゴそのものの偶像的な存在であり続けています。
今回紹介したライブ盤でゴジェネチェが歌う “El gordo triste” (悲しみのゴルド) はピアソラとオラシオ・フェレールがトロイロに捧げて書いた曲です。「ゴルド」とは太った人を表す言葉 (太っちょ、おデブさん、あたりのニュアンスでしょうか) で、トロイロの別のニックネームでもあります。トロイロ自身が自らの生まれ育った街に捧げる詩を語る「わが街へのノクターン」の最後でも「ゴルド、戻っておいで」と呼び掛けられる部分が出てきます。
またピアソラのバンドネオンのみで伴奏される “La última curda” (最後の酔い)、ボーナストラック “Garua” (氷雨) はトロイロの作曲によるものです。
下の映像はトロイロとゴジェネチェの共演で “El motivo” (動機) という曲。この時点ではまだヨレヨレじゃなかったゴジェネチェにもご注目を。
さて、いろいろぶちこんだらやたら長くなりました。こういうネタは止まらなくなりますが、さすがにこの辺にしておきましょうか。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
卓球好き、音楽好きです。飲み食い好きが高じて料理もします。2024年ソニーグループ(株)を退職し、同年より(株)fcuro勤務のAIエンジニアです。アルゼンチンタンゴ等の音楽について雑誌に文章を書いたりすることもあります。
なお、当然ながら本サイトでの私の発言は私個人の見解であります。所属組織の方針や見解とは関係ありません (一応お約束)。
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“自分の聴覚に多大な影響を与えたレコード (7) Astor Piazzolla – Roberto Goyeneche / En Vivo (Mayo 1982) Teatro Regina (アストル・ピアソラ・ライブ ’82)” に対して5件のコメントがあります。