ピアソラ没後30周年に寄せて

アストル・ピアソラが世を去ったのは1992年7月4日でした。今年で没後30年になります。3月にはピアソラの生誕101年を記念した記事に

今年はピアソラの没後30周年でもあります。命日の7月4日には遅れないように何か書きたいものです。

ピアソラ以外のアーティストによるピアソラ楽曲集~ピアソラ生誕101周年に寄せて

と書いたものの、さて何を書こう…と思っているうちにもう当日も終わりそうです。ピアソラが亡くなった頃の個人的な体験を書いておきます。

ピアソラの最後の来日は1988年でした。1984年から続く歌手ミルヴァとアストル・ピアソラ五重奏団との共演で、私は6月29日の東京厚生年金会館での公演に行きました。実はこの時私は入社2年目の販売研修で大阪に滞在していたのですが、運良く休みの日に重なったので新幹線で東京に戻ってきたのでした。

内容は素晴らしいものでしたが、圧倒されているうちに曲は進み、あっという間に終わってしまったという印象です。ミルヴァの真っ赤なドレスが目に焼き付いたまま、夜行の寝台で大阪に戻ったのでした。

後から知ったことですが、この公演の2か月後にはピアソラ五重奏団は解散してしまいます。以下は、この時のライブ音源が後年 CD 化された際に書いたものです。

実は、この公演からわずか2ヶ月足らずの間に、ピアソラ五重奏団は解散してしまう。ピアソラが心臓手術を受けることになったためである。ここに記録されているのは、ミルバとピアソラの共演としても、ピアソラ五重奏団としても、到達した最後の高みなのだ。

ミルバ&アストル・ピアソラ ライヴ・イン・トーキョー 1988

思えばこの時が終わりの始まりだったのかもしれません。

その後のピアソラは六重奏団を結成するものの1989年に解散、その後はクラシックのオーケストラとの共演等の演奏活動が続きます。

そして…

手元の記録を見ると、それは1990年の9月22日だったのだ。オスカル・バシル指揮、フランシスコ・カナロ楽団の東京公演。ただぼんやりと席について開演を待っていると、目の前に座った男の言葉が耳に飛び込んで来た。「ピアソラが倒れたんだって。脳溢血らしいぜ。」連れの女性に向かって、あるいは自分自身に向かって、「ああ、もうだめなんだ。ピアソラは死んだんだよ。」とつぶやく彼。

椅子に深く座った彼のシルエットや声のトーンまで鮮明に覚えているのに、その後のカナロ楽団の音は見事なまでに全く思い出せない。

2年後の1992年7月4日、アストル・ピアソラはこの世を去った。私が彼の訃報を知ったのは、果たしてその直後であったろうか、かなり日が経ってからであったろうか。いずれにせよ、1990年の秋の日の衝撃に比べると、その事実はもはや淡々と受け入れられた。悲しかったけど、仕方ないとしか思いようがなかった。

ピアソラをめぐるいくつかの個人的な事柄 (その2)

確認したところ、ピアソラが倒れたのは1990年8月4日。上の体験はその一月半後だったことになります。とにかく亡くなったというニュースよりも、上記の男性の言葉の方が圧倒的に記憶に残っているのです。


1980年頃からピアソラの音楽に心を奪われ、新譜のリリースを心待ちにする同時代のファンとして彼の音楽に接することができたのは、私にとってとても幸せなことだったと思います。30年の時を経てなお、その体験は私にとっての大事な宝物です。

結局日付を跨いでしまいました。亡くなったのはブエノスアイレス時刻の23時15分だったそうなので、それには間に合ったということでよしとします。

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