あの頃、空腹はいつも風月が満たしてくれた
あまりにもショックでした。
2022年8月2日、札幌のお好み焼き店「風月」の社長、二神敏郎さんが亡くなりました。
私の出身校である札幌南高校の近くに本店があった風月 (静修学園の目の前でもありました)。本当に多くの同窓生がこのお店にお世話になりました。その創業者が二神さんです。
実は8月1日には本店の閉店が発表され、同窓生の間に激震が走ったのでした。
私はこの時点では、相当ショックを受けつつも、会社自体は順調みたいだし社長もまだまだお元気そうだから、という事で何とか受け入れられました。でもそこから間を置かずに流れてきた社長逝去のニュース。ちょっとこれはだめです。ダメージが大きい。
せめて風月と二神社長について、覚えていること、思いつくことを書いておこうと思います。
目次
風月との出会い
私が風月に通うようになったのは1979年、高校に入った年でした。初めて行ったのは本店ではなく石山通沿いの南22条にあったお店。当時通学に石山通のバスを使っており、同じ方向に帰る友人に誘われて入ってみたのだと思います。店でお好み焼きを食べたのはこの時が生まれて初めて。美味しかったなあ。
その後は学校のすぐ近くの本店に行くようになります。部活 (卓球部でした) やバンド活動で帰宅は遅い日が多かったので、月~金の下校時に寄ることはあまりなく、土曜日の授業後に午後からの練習に備えて、或いは練習後に食べることが多かったと記憶しています。
とにかくすぐに腹の減る高校時代。手軽に満腹になり、乏しい小遣いの懐にも優しかった風月のお好み焼きと焼きそばは、高校生活に無くてはならないものでした。
当時の風月のメニュー
当時は紙にマジックで「目に云う」と書かれたものが壁に貼られていました。メインはお好み焼きと焼きそばで、両方ともイカ、豚、ミックス (イカ+豚)。お好み焼きは「イカ玉」「豚玉」だったけど焼きそばの呼び方はどうだったかな?加えてデラックスとウルトラというのもありましたっけ。デラックスがそば入りお好み焼き?ウルトラがさらに増量?…この辺はかなり記憶が怪しいです。
そして夏場はかき氷。普通にいちごシロップをかけたもののほか、それに練乳プラス (いちごミルク)、ソフトクリームプラス (いちごソフト)、両方プラス (いちごミルクソフト) というラインナップだったと思います。いちご以外のシロップもあったかな…?
(2022/08/13 追記) 本記事を Facebook で共有したところ、多くの友人からコメントでメニューについての情報を頂きました。お好み焼きは「イカ玉」「豚玉」「ミックス」の他「デラックス」がありましたが、上述のようなそば入りではなく具の種類がさらに多かったようです。仕上げは鉄板に卵を落として目玉焼きにして、その上にお好み焼きを乗せる、という形だったと思います。冬限定で「牡蠣玉」もあった、という情報もいただきました (これは個人的には記憶にないのですが…もしかすると私の卒業後だったのか、それとも当時は牡蠣に食指が動かなかった私が記憶に留めなかったのか)。
一方焼きそばは具ではなく量の違いとして「ワイド」「ウルトラ」というのがありました。「ワイド」は麺2玉、「ウルトラ」は3玉で、さらに「ウルトラ」2人前を平らげるとタダになる、というシステムもありました。ものすごい量でしたが、後に食べ切る人が増えてそのシステムはやめになったそうです。
かき氷の味はいちご以外にレモンと金時があったようです。結構な量だったので、手がかじかんだ、頭がキーンとなった、という思い出話もいただきました。(追記終わり)
オヤジさんの焼き方
当時の風月はカウンター席のみ、鉄板1枚のみで、オヤジさん (当時の我々にとっては社長ではなくおじさん、オヤジ、オヤジさんでした) が全て焼いてくれました。焼き上がるまで手持ち無沙汰だったので、私はいつもその手順を観察していました。
注文を受けるとカップに入った生地、具、卵をよく混ぜ、鉄板の上に広げます。豚肉も上に乗っけたりはせず混ぜ込む方式です。そしてこの段階で最初の独特なポイント。早々にかつお節を上に乗せちゃうのです。ある程度焼けたらひっくり返し、かつお節は鉄板側へ。この焼かれたかつお節が実は風月の大事な特徴のひとつだったのではないかと思っています。
以後何度かひっくり返してしっかり両面を焼き、いい感じになったら最初に手に取るのはマヨネーズ。ぶちゅっ、どばっという感じでマヨネーズをかけたら、その上から刷毛でソースをたっぷりと塗ります。マヨネーズとソースは刷毛で混ぜられ渾然一体となり、鉄板上にこぼれたソースは焼けて猛烈に香ばしい匂いを漂わせます。刷毛についたマヨネーズやお好み焼き本体の脂、旨味等はソースの容器に入り、それが繰り返されて秘伝のタレのような様相を呈していたかもしれません (想像ですが)。このマヨネーズとソースによる仕上げの手順が2つ目の独特なポイント。今風のマヨネーズビームで細い線を描くような繊細さとは一切無縁ですが、あのマヨネーズとソースの混ざり方こそが私にとってはお好み焼きの理想の姿です。
最後に青のりを振りかけて出来上がり。目の前にスライドさせてくれるので、それを小さなコテで切り分けながら口に運びます。
合格焼き
店内には神棚があって、そこにひときわ立派なコテが供えられていました。合格焼きのコテです。
コテは確か大宰府天満宮かどこかでお祓いを受けたものだったと思います。受験シーズンになると、このコテで焼いた「合格焼き」を食べるのが我々の合格祈願でした。
お好み焼きの内容自体はミックスかデラックスあたりと同等だったでしょうか。何か合格にかけた特別なものはあったのかな…?
焼けるのを待つ間に、備え付けのノートに思い思いのことを書いていました。「◯◯大学に合格するぞ!」とか何とか。食べ終わったら記念品として、徳島県にある学駅の入場券がもらえました。
私は現役の時と一浪の時の二回、この合格焼きを食べました。一浪の時は地元のテレビの取材が来ていて、一緒に行った友人とインタビューされたのでした。ただ、リハーサル中にレポーターの方に言われたことがちょっと気に障って、超低テンションで映ってしまったと記憶しています。番組はともかくお店には申し訳なかったと思っています。
(2022/08/13 追記) 再度 Facebook での共有 へのコメントによれば、合格焼きは505円だったそうです。ごうか (ひゃ) くにご縁、という語呂合わせですね。(追記終わり)
二神社長誕生
「目に云う」のベタな当て字も合格焼きも、オヤジさんのサービス精神とアイディアの賜物だったのだと思います。そのサービス精神とアイディアを生かして風月は拡大路線に乗り出します。
会社概要を見ると有限会社になったのが昭和60年 (1985年)、この時に風月のオヤジさんは二神社長になったわけです。株式会社になったのは平成6年 (1994年)。
私自身は1983年に東京に出てきたので、この当時の変化の軌跡はよく知りませんが、店舗はどんどん増えています。どのタイミングかはわかりませんが、セルフで焼くスタイルに転換し、メニューも増えました。上で述べたような手順が継承されなかったのは個人的には残念ですが、道産素材を使った美味しいお好み焼きを多くの人が食べられるようになったという功績は大きいと思います。
二神社長はしばしばあちこちの店舗に顔を出されていたようで、私の友人たちから一緒に写真を撮ったという投稿が SNS に上がったりもしていました (私は残念ながら遭遇したことはありませんが)。
また、札幌と東京で毎年行われる同窓会 (六華同窓会、東京六華同窓会)ではブースを設置して、社長自らお好み焼きと焼きそばを焼いて振る舞ってくれました。2017年の六華同窓会では風月50周年を記念して感謝状が贈られました。
コロナ禍で休業を余儀なくされた2020年春には、医療従事者のもとにお好み焼きを無償提供していました。
社長・経営者という立場に立っても、原点であるサービス精神とアイディアを生かして活躍した二神敏郎さん。ご自身は、きっとまだまだやりたいことがたくさんあったのではないかと思います。それを想うと急逝の報は本当に残念でなりません。
心よりご冥福をお祈りします。
(2022/08/13 追記) またまた Facebook での共有 へのコメントから。正確な年代はわかりませんが (少なくとも1983年よりは後)、まず本店の地下がオープンし、自分で焼くスタイルが導入されました。1階は変わらずオヤジさんが焼いてくれる形で、地下でも希望すれば上で焼いたものを食べることもできた、とのことです。私より11期下の友人はセルフでしか食べたことがないそうなので、1990年頃には完全にセルフに移行していたことになります。(追記終わり)
引き継がれる風月の味
社長は亡くなり本店の閉店も決まりましたが、風月自体はこれからも続いて行きます。これからの風月を引っ張って行くのは社長の娘さんである二神ひかりさん。2017年に新川高校放送局が制作したインタビュー映像を紹介します。
これを観ると、きっとこれからも風月は大丈夫と確信できます。引き続き応援して行きます!
↑は今年 (2022年) 3月に、札幌在住の長男とパセオ店に行ったときのもの。上の方でえらそうにオヤジさんの焼き方を書いた割にはしっかりマヨネーズビームしてますが😅 パセオ店も本店同様閉店ながら、これは駅近辺の再開発によるもので折り込み済み。今後も機会があれば行ける店舗に行こうと思います。
ところで、私が最初に行った石山通南22条の風月。上でリンクを貼った会社概要には触れられていません。実はこちら、二神社長の弟さんのお店で (下の追記参照)、現在は「田の久」という名前になっています。食べログのコメントにその辺の経緯が書かれていました。
しかしバブルの頃、銀行屋さんが資金出したようでお兄さんは現在の風月のようなスタイルに。弟さんは反対し風月の名前を返上し、今の田の久になりました。
食べログの口コミ:『田の久』by Sugy
お二人の人間関係等、詳しいことはわかりませんが、まあそういうことだったようです。食べログ等に投稿されているお好み焼きの写真は、まさに昔オヤジさんに焼いてもらったイメージそのもの。今度札幌に行ったら訪れてみたいと思います。
(2022/08/13 追記) 「田の久」の店主が二神社長の弟さんだという話は、ネット上の口コミで知っただけなので若干根拠が弱い話ではあります。一応上記の食べログの口コミ以外にも同様の記述が複数見つかりましたので私としては信じましたが、そのような情報であることをご了承ください。(追記終わり)
(2023/01/20さらに追記)「田の久」行ってきました。帰り際にご主人に「こちら、以前風月でしたよね?高校時代に来たことがあります」と話したところ「大昔ですね。この前亡くなった風月の前の社長とは、出身が彼は大阪で私は○○ (聞き取れず) で、一緒に出て来て店を始めました。」というようなことをおっしゃっていました。とすると、弟さんではないということになります。誤情報を書いてしまい申し訳ありません (と言いつつ聞き間違いではないかという不安もありますが…)。(追記の追記) 田の久のご主人と親しい友人が「弟さんではないです」と明言してくれました。(追記終わり)
関連ランキング:お好み焼き | 石山通駅、東屯田通駅、中央図書館前駅
以上、ちょっとのつもりが長くなってしまいました。何分記憶に頼っているため誤りもあるかと思います。特に80年前後の時期「目に云う」については心許ないので、もし訂正や追加の情報がありましたらぜひコメントしていただけると嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました。
卓球好き、音楽好きです。飲み食い好きが高じて料理もします。2024年ソニーグループ(株)を退職し、同年より(株)fcuro勤務のAIエンジニアです。アルゼンチンタンゴ等の音楽について雑誌に文章を書いたりすることもあります。
なお、当然ながら本サイトでの私の発言は私個人の見解であります。所属組織の方針や見解とは関係ありません (一応お約束)。
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Facebook にいただいたコメントをもとに、当時のメニュー情報などいくつか追記しました。