第222回 長唄 吉住会 (2025/01/26 東京・紀尾井小ホール)

純邦楽とは日頃ほとんど縁のない生活を送っているが、友人が出演するということで長唄の演奏会に行ってきた。

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今回とても良かったのが、第一部、第二部のそれぞれ冒頭に曲のあらすじや聴きどころの前説があったこと。普段聴きなれない者にとってはなかなかとっつきにくい長唄の世界が、この前説の存在でぐっと身近に感じられるようになった。そのストーリーは、龍神や弁天様が姿を現す壮大なスペクタクルもあれば、人形使いの旅芸人のおめでたい話、吉原の風俗をコミカルに伝える話、のどかな初春の情景、猿回しの小猿があわや悲劇に見舞われるかと思いきや一転めでたくハッピーエンドとなる話、とバラエティーに富んだもの。事前に配布された「演目解説」には歌詞全文も載っていたので、聴きながら文字でも歌詞を確認して楽しむことが出来た。曲によって唄と三味線だけのものもあれば、それに小鼓、大鼓、笛が加わるにぎやかなものもあって、その変化もまた面白かった。

個人的に興味を引かれたこともいろいろあった。まず、歌い手や演奏者の自分のパートとそうでないときのお作法が面白い。歌い手は自分が歌うタイミングが近づくと閉じた扇子を手に持ち、終わると扇子を前に置く。演奏者のうち三味線は基本的にずっと弾きっぱなしだが、小鼓、大鼓の人は演奏しない時には楽器を紐で結んで前に置き、両手を袴の脇から中に入れて待機 (ズボンのポケットに手を突っ込んでいるような感じにも見える) 。演奏パートが近づくとおもむろにまた紐を解いて楽器を手に取る。笛の人はあまりよく見ていなかったが、やはり演奏しない部分では楽器を前に置いていたと思う。楽器を置くぐらいであれば普通のことのようにも思えるが、歌い手の扇子や鼓の紐は完全にオンとオフの切り替えの合図というか記号というか、そんな感じに見えた。

また、これは今回の感想というよりこれまでも邦楽を聴く度に思っていたことなのだが、唄と三味線のメロディの関係が謎である。西洋音楽的な解釈で言うと、唄、三味線のそれぞれは複数人いても基本的にユニゾンの世界で、音程を変えてハモるというようなケースはない。それでいて唄と三味線の関係はユニゾンではなくメロディーも譜割りも異なっていて、独立に動いている。どういう発想で作られているのだろうか。乱暴だと怒られそうだが、ギターが単音のリフでボーカルのバッキングをしているような感じ、というのが一番近いような気がしてしまう。

そんなことを考えながら長唄を聴くのもまた楽しい。

第222回 長唄 吉住会

日時:2025年1月26日 (日) 13:30~

場所:東京 紀尾井小ホール

出演者:吉住会一門

曲目:

【第一部】

  1. 竹生島 – 文久2年 (1862) 十一世 杵屋六左衛門 作曲
  2. 傀儡師 – 天保7年 (1836) 四世 杵屋三郎助 作曲
  3. 俄獅子 – 天保5年 (1834) 四世 杵屋勝六三郎 作曲

【第二部】

  1. 梅の栄 – 明治3年 (1870) 三世 杵屋正次郎 作曲
  2. 靭猿 – 明治2年 (1869) 二世 杵屋勝三郎 作曲

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